私の父親の話。
- 2023.03.03
- 日記
私が父を社長と呼び始めたのは、高校3年生の10月?11月?頃で、大学の合格が決まったその次の日かから始まりました。…なので高校3年生で一番楽しい季節を完全にアルバイトに捧げるという話になるのですがそれはそれで悲しくなるから割愛。
とかなんとか言っちゃって、私併せて社員5名程度の会社でしょう。多感な高校3年生にはなかなか「社長」なんて呼べてなかったんですよね。俺はてめーを認めないぜ、とはちょっと違いまして、まぁ若い私は単純に恥ずかしかったからですね。
で、それでも色々ありまして。
喧嘩もひたすらに多く。
その3倍、楽しく笑ってこの27年近く一番側で仕事ができました。
父は根っからの職人さん、のようで私が入社してからは旋盤回しているなんて1回しか見たことがないレベルで専ら我流経営者してました笑
ただね。
旋盤壊れたり、失敗したり、上手くいかなかったときは必ずアンサー(技術)を持っている職人さんだったなぁ、と思います。
ここ数年は会社規模が5人から25人となり、メーカーへと変わっていった為に、相談することも相手することもなくなった(ヲイ)かどうか置いておいて、よくも悪くも会社の流れを見ているだけの社長でした。
毎日ねぇ、100円玉じゃらつかせて嬉しそうに配ってて。
そんな社長を見て私は「100円玉配りおじさん」とケラケラ笑ってジュース買ってました。
たっくさん喧嘩して。
めちゃめちゃ笑って。
社長として一緒に過ごした時間は今となればとても幸せで濃密な時間でした。
そう。
過去形。
2月1日に10年先の病気を発症する、かもしれない、ことを予防する為の手術を受けました。1回目の手術は成功したそうですが、その半日後に手術の影響を受けた血管が破裂し脳を圧迫した為に意識不明となりました。
結局、意識不明は3週間と少し続き、先日帰らぬ人となってしまいました。
予防のための手術を受けたことが原因で最悪の結果となったのですが、母は泣き崩れ。兄も私も憤りを隠せませんでした。
意識不明になった際に社長不在は困りそうだったために色々ありましたが急遽兄を代表取締役社長とし、私が副社長へと変更しました。
社長交代からしばらくしてから亡くなったので事業承継~相続へと問題山盛り状況ですが、とは言え御陰様で会社は全く変わらず動いています。もとよりジュースしか配ってなかったから笑
社長は25歳くらいのころから2代目社長として約50年社長人生を突っ走っていました。
本人からすると早いリタイアとなり、悔いが多かった・・・と思いたくはないのですが最後が切なすぎて気持ちの整理がつきません。
それでも。
先日葬儀が無事終わり、小さくなって帰ってきた社長。
長い間、テラダを支えてくれて本当にお疲れ様でした。
今までは仕事仕事仕事で家になんかいなかったのですが、これからは母と一緒にゆっくりお家で過ごして下さいね。
それと、ここから先は全く心配無くさ。
ゆっくりテラダの繁栄を眺めててください。
大丈夫。
私はアナタから譲り受けた技術でテラダをもっと大きくし、兄はそれらを束ねる最強経営者となるでしょう。
「やれるならやってみーよ」
と、言いたげな顔をしてるとは思いますが笑
まぁまぁゆっくりコーヒー飲みながら眺めててね。
ほんとよく頑張りました。
アナタは一流の職人達を育てた素晴らしい男でした。
花マルあげるよ。